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不倫恋愛カウンセラー 高野那々プロフィール

こんにちは!高野那々です♪


私は、2008年にカウンセラーとなり、2010年に不倫専門カウンセラーとして活動させていただいております。

これまでに、70組近くの方を不倫恋愛から結婚へと導かさせていただきました。(ご報告ベース)

そんな私の半生は、
最低最悪の連続。ドン底のドン底を味わった私だからこそ、あなたの気持ちがよくわかります。こんな経験があったからこそ、解決の近道がわかります。


親のDV、家出、16歳で出産、薬物依存症、アルコール依存症、自殺未遂、恋人からのDV・・・

自分の人生を振り返り、辛いことしかなかった人生だったけど、今はこうして、最愛の人もでき、子宝にも恵まれ本当に幸せに過ごさせていただいている。

でも、それはそれはとっても長い道のりで遠回りばかり、今こんなに幸せに生きてることが不思議なぐらい。

あのときに、私のすべてを受け入れてくれて、相談できる人がいたら、寄り添ってくれる人がいたら、こんなに長く苦しい思いもしなかったし、遠回りもしないで済んだはず・・・。


こんなにひどい人生だった私自身が、今こうしてこんなに幸せになれた今だからこそ、本当にそう思える。


私は、そんな今、苦しんでる人の役に立てるのではないだろうかと思い、勉強をはじめ、カウンセラーとしてデビューさせていただきました。


正直、お恥ずかしい内容ばかりですが、高野那々のカウンセラーになろうと思った軌跡をここに記しましたので、先ずはこれを読んで観て下さい。

そして…あなたの悩みを、私に話して楽になってみませんか?




◆生い立ち

1982年11月横浜市中区の中華街の入り口近くにある病院で私は生まれました。

父は当時24歳、母は22歳。二人の出会いもやはり横浜で母はホステスをやっており、父はサパークラブでホストをやっていました。
父は水商売スレしていない母を新鮮に感じすぐに心魅かれ、付き合ってすぐに私の妊娠が発覚し結婚することになりました。若い二人なので裕福ではありませんでしたが、父は色々な仕事をして生計を立てていました。

ただ、色々とうまくいかないことがあったようで、仕事柄お酒を飲むことも多く、毎日朝帰りしては母に絡み、母もかなり負けん気の強い性格だったので、黙って聞いているわけでもなく私が小さい頃はよく言い合いをしていました。なんとなく私も小さいながら覚えているのは父が母を巴投げして、それを私が黙って見ているというシーンです(じゃれているのではなく、本気の巴投げです)。
とは言え、仲がいいときもあり、ふたりで料理を作って一緒にお酒を飲んだりしていました。父はお酒が入ると口が悪くなり、よく周りの人と喧嘩をしていました。お酒を飲まないときはとても優しく陽気な人で友達も多かったと思います。

母は、自身が小さいときから父親がおらず、ずっと母親と暮らしていました。芸者をやっていた母親はあまり家に帰らず、私の母は随分寂しい思いをしたようです。そして、中学生頃からだんだんと悪い友達と遊ぶようになりシンナーをやったりヤンキー仲間と喧嘩をしたりして更生施設に入ったりもしました。
父もまた、男3人兄弟の真ん中で、母親は大変厳しく、父が一番厳しく育てられたようで、殴られたり、家を追い出されたりされていました。

なので、父も母もお互いに屈折しているところがあり、それが惹かれあった原因の一つかもしれません。

私が幼稚園生の頃は、父が酒を飲んで暴れる以外は特に問題はありませんでしたが、一人っ子ということもあり自分の世界に入り込んでよく独り言を言っていました。友達と大勢で遊ぶよりもお人形ごっこをしたり、空想をしたり、木登りをして本を読んだりして一人で遊ぶことが好きでした。

周りを見下し、大人びたようなところがあったので、サンタクロースは実は両親だということをクラスメイトに言いふらしたり、園長先生に向かって、もうこんな幼稚園は嫌だ!帰りたい!と困らせたり、幼稚園バスの窓から手を出して先生に怒られたときには、「じゃあ、足なら出していいんでしょ」と言って実際に足を窓から出し、先生からかなり叱られた記憶があります。

とにかく人と違ったことをやって目立つのが大好きな子でした。
自分がいつも注目されていないと嫌な子だったので、母親が家で電話中に気を引こうとして冷蔵庫の牛乳を壁にぶちまけたことがあります。怒られてもいいので注目されたかったのだと思います。そんなわけのわからないことをしょっちゅうしでかす子供でした。



◆小学生時代

小学校に上がる年に横浜から藤沢に引っ越しました。小学校低学年のときは活発な子で授業でも特に質問がないのに手をあげて何か聞いているような子でした。
ですが集中力がなく、しょっちゅうよそ見をしたり、歩き回ったりしており、先生からはよく叱られ、協調性がないと通信簿によく書かれていました。

同じクラスの男子とも仲が悪く、なぜか隣の席の男の子にお前とは遊びたくねーよと睨まれまたり、それからクラスでリーダー格の男子から暴行を受けるようになり、集団でボコボコにリンチをされたこともあります。その時は悲しいというよりも、やり返せない自分が悔しくて、とにかく負けん気だけは強かった子でした。

女の子とは仲が良かったのですが、なぜか昔から男の子に冷たく当たられたり意地悪をされたりすることが多く、今思うと私の態度が男の子を逆なでするようなものだったのだと思います。このころから男子をバカにしていたのでしょう。

ただ、気にいらない女子がいるとその子を無視したり、いじめたりもしていました。ランドセルでその子の顔を思い切り殴ったり、髪の毛を引っ張ったり泣かせたり・・・、高学年のときは、態度の悪い女子を登校拒否にまでさせたことがあります。性格はかなり悪かった、というより、ひどかったです。


当時母親は、近くのスーパーの薬局でバイトをしていたのですが、そこで知り合った男性と関係を持ち、そのうち男性の方が本気になってしまい、よく家に思いつめたような電話がかかってきました。

「俺が◯◯さん(母)とナナちゃんを幸せにしますから!」と泣きながら電話をかけてきたり、その男性が自宅で自殺未遂をして母が駆けつけたりしたこともありました。

もうその頃には、当然両親の関係はとても悪く、すれ違っても挨拶も話しもしないぐらいになっていました。母とお風呂に入っているときに、「どうしたらお父さんを殺せると思う?」とよく相談されました。それから母は違う男性とまた付き合うようになり、その人と駆け落ち同然である日突然、家を出て行きました 。

そして、両親は私が小学校5年生の時に離婚をしました…。



◆中学生時代

中学生になってからは当時学年で一番人気の男の子と付き合うようになり、また、よく遊ぶグループが悪かったということもあり、学校の中でお酒を飲んだり、夜遊びをしたりしてあまり家に帰らなくなりました。

その頃から父は私によく暴力を振るうようになり、父は怖い存在だと思うようになってきました。お酒が入ると本当に手がつけられず、カッターで頬を切られたり(今でも跡が残ってますが)、ゴルフのパッドで私のことも殴ったりもしてきました。

だんだん両親のことが嫌いになり、「私は愛されていない、必要とされていない、だから私の居場所はここにはないんだ。」と思うようになり、そんな寂しい気持ちを埋めるように万引きをするようになりました。
一度に10万円分ぐらいの洋服を万引きするので、ついにお店の人に見つかり警察に捕まり、一緒に万引きをしていた先輩は泣いてましたが、私は警察に行っても特に動じることもなく、どうにでもなれという感覚でした。父が迎えに来ましたが、どうしてそんなことをするんだ!と怒られても私はどうでもいい!という気持ちでした。

母が出て行ったので、私は父と二人暮らしをしていたのですが、父は新聞の配達員をやっており、朝晩真逆の生活をしていたので私はお弁当を自分で作って持って行っていました。だんだん勉強するのも嫌になり学校には遅刻をして行って、お弁当食べたらそのまま帰るという生活をしていました。

スカートも思い切り短くし、髪の毛も染めてピアスも開けて、タバコも吸って先生に反抗しまくりかなりの問題児でした。

あるとき男の先輩を家に泊めたら、ちょうどそのタイミングで父が帰ってきて、その先輩と一緒にボコボコに殴られました。それから先輩の間であいつの家はやばいということになり誰も私と付き合わなくなってしまいました。

とにかく毎日がつまらなくて寂しくて母親に手紙を書いても帰っては来るのですが、私に会いにくるようなことはあまりありませんでした。私はそのとき、母は結局男を選んだんだと裏切られたような気持ちでいっぱいでした。
父は相変わらず毎日お酒を飲み、離婚した母のことを愚痴ったり、また戻りたいというようなことをぶつぶつ言っていたのを記憶しています。



◆家出〜見ず知らずの人との同棲〜妊娠

ある日学校に行かずふらふらで歩いていたときに、地元の先輩の知り合いの知り合いが、一人暮らしをしているということを聞き、試しに私もそこに行きたいと話してみたら、じゃあ来ればということになりました。

私は父には何も伝えずいきなり家を出て、着の身着のままでその人の家に行きました。その日は確か台風で家に帰っても父に怒られるし、誰も自分の味方はいないし、とにかく今と違うところに行きたい!!そんな気持ちでいっぱいでした。どうせ父にその話をしたら叱られるだけだし何も言わずに消えてしまえばいいと思ったのです。


当時私は14歳。その相手は18歳でした。彼の地元は福島で親元から離れ東京の立川で一人暮らしをしていました。適当にバイトをしながら食いつなぎ、親から仕送りをもらっているという状態でした。

恋愛感情もなく、ただ現実逃避のための同棲が始まってから、一度も父に連絡することはなく、私は毎日学校にも行かず好き勝手に暮らしました。お腹が空いたら好きなものを食べ、毎日夜更かしし、ゲームで遊んだり、お酒を飲んだり、街を出歩いたりしました。

ある日歩いていると、近所の人が私の身体を見て、「妊娠してるんじゃない?大丈夫なの?」と言ってきました。私は妊娠するということがどういうものなのか知らなかったので、生理が止まったこともさして気にせず、ただお腹がだんだん出てくるのが嫌で、腹筋をしたり、走ったり、絶食したりしてダイエットを頑張っていました。でもなかなか痩せないのでなんでだろうと不思議に思っていました。妊娠・避妊の知識が全くなかったのです。

その近所の人に言われたことがきっかけで近くの病院に行きました。産婦人科というものがあるのも知らなかったので、内科に行って診察をしてもらったら、おそらく妊娠しているということで産婦人科を紹介してもらいました。

産婦人科の女医さんには呆れ顔で、「あなた妊娠してるわよ!もう中絶できないわよ!どうするの?!!」と言われました。なんとそのとき、すでに7ヶ月目だったのです。

もしかして?とその女医に過去に起きたことを話して見ました。

ある日、寝ていて目を覚ましたら布団が濡れていたことがありました。この歳でおもらし?と思ったら、途端に激しくお腹が痛み出し、トイレに駆け込んだのです。お腹を壊したのかと思ったからです。
そうしたら出血が止まらず、生理でこんなに血が出るものなの?と驚きました。全然止まらず、お腹もどんどん痛くなり、私は立ち上がることもできませんでした。そのうち気持ちが悪くなり、同棲相手に吐き気がするから洗面器を持ってきてと頼みました。同棲相手も私のただならぬ様子にびっくりしていました。
嘔吐と出血がずっと続き、あまりの痛さに私は泣きながらうめきました。そのうち、膣から何か出て来るような感覚があり、恥ずかしかったけど同棲相手に見てもらいました。血のかたまりのようなものが出きており、お腹にも力が入らなかったので、割り箸で引っ張ってもらったことがあったのです。

そんなことがあったと女医に話したところ、それは完全流産で、もし子宮の中に残留物が残っていたら、あなたの命はなかったと。私がおしっこだと思ったのは、破水だったようでした。子宮外妊娠だったかもしれないと。でも、そのときは保険証はないし、病院に行ったら家出をしていることがバレて家に帰されるかもしれないと思うと、病院にはいけませんでした。なんと、体調は自然と回復したのです。あんなに痛い思いは、人生後にも先にも経験したことがありません。避妊や妊娠の知識の無さを改めて恐ろしく思いました。


今回は妊娠を確かにしていて、且つもう7ヶ月目。中絶はもうできない、ということなので産むしかないと決意し、まず出産費用をどうするのかという問題が持ち上がりました。保護者もいないし父には連絡したくない、母の居場所も知らないし途方に暮れました。

その同棲相手のお母さんは福島に住んでいたのでとにかく相談しに福島まで行きました。何度か立川の家にも来ていたその相手のお母さん。派手な格好の私を見て、「こんなどこの馬の骨か知らない女といきなり同棲をして、私の気持ちはどうなるの?あなたは何もわかっていない!!」とその同棲相手に怒鳴り散らしていました。私はこのお母さんのことが大嫌いでした。 だから会いに行きたくはなかったけれどどうしてもお金が必要だったので、彼のお母さんに助けてもらおうと思ったのです。「私にはどうすることもできない。少しの間ならこの家に置いておけるけど、後は知らない。自分たちでどうにかしなさい!」と突き放されました。

その彼のお母さんはラブホテルでアルバイトをしていて生活もカツカツだったので、自分の娘でもない子供の面倒など到底見れるはずもありません。でも私はその時なんて冷たい人間なんだ。地獄に落ちればいいと思いました。

福島にいながらなんとか知り合いをたどって、母の所在を突き止めました。母は私の知らない男性と小田原で同棲していました。事情を話すと、さほどびっくりした様子もなく、「あんたが生きてると思わなかったわ。あんたならそうなると思ったわ。そうなんだ。じゃあ家に来る?」と言われました。お金も何とかしてくれるということだったので、私はすぐに小田原に行きました。

もし母の所在がわからなかったら私は未成年の身寄りのない子供が集まる施設で出産をしなければなりませんでした。救われた気持ちでした。

でも、私が小田原に行ってからというもの、父親となるはずのその同棲相手とは一切連絡がつかなくなり、完全に音信不通となってしまいました。

私は捨てられた、裏切られたと思いました。やっぱり私は誰からも必要とされないんだ、利用されたんだ、そんな気持ちでいっぱいでした。



◆16歳で出産〜自殺未遂〜薬物依存症

出産は自然分娩でしたが安産だったのでそこまで大変ではありませんでした。16歳の時です。生まれてきた子供も全く可愛いと思えず、どうにかしてどこかに置いていけないかなと思いました。私は我が子を抱いても、何の感情も湧きませんでした。とにかく重かったお腹が軽くなったのでそれだけが嬉しかったのです。

息子は夜泣きがひどく母乳で育てていたので毎日寝不足でした。育児がこんなに大変だとは思いませんでした。早くいなくなってほしい、どうして私だけがこんな思いをしなければならないの?と毎日死にたい気持ちでいました。

だんだん育児ノイローゼになってしまい、私はしょっちゅう自殺未遂を繰り返していました。自宅で首を吊って死のうとしたところを、すぐに母に発見されて、なんとか一命を取り留めたこともありました。あのとき、誰にも発見されなかったら私はここに存在してません。

他にもカッターで手首を切ってみたり、幹線道路を走っている車に突然飛び出したり、大量の下剤を飲んだりしていました。

ビーズクッションの下に息子を置いて上から思い切り乗っかり、本気で殺そうとしたこともあります。抱っこしても泣き止まないので衝動的にやってしまっていたのです。ずっと乗っかっていればそのうち死ぬだろうと思って止められなかったのです。

でも、さすがに我に返ってクッションを取ったら息子が真っ赤な顔をして辛そうにしていました。それを見たときに自己嫌悪になり、また死にたくなって生きていても意味がない、こんな人間は死んだほうがましだ。そういう思いがどんどん強くなっていました。


気を紛らわす為とお金を稼ぐために母と同じ水商売の世界に入りました。そこでも無断欠勤を繰り返し、また出勤をしたらしたで、お客さんと酔い潰れるまでお酒を飲んで、とにかくハチャメチャな接客をしていました。そのうちオーナーから、援助交際の疑惑を掛けられ、強制的にクビになりました。

それからお客さんの紹介で地元のヤクザと知り合いになり、そのヤクザにお小遣いをもらって食いつないでいました。平塚のキャバクラを紹介してもらったりして少し働くのですが、まだ未成年だったのでそれがお店にバレてまたクビになる、そういうことの繰り返しで毎日を不安定な生活を送っていました。
その後、そのヤクザがやっていた風俗店の電話番をしたり、女の子の勤怠調整をしたりしていましたが、何か手っ取り早くテンションが上がるようなことがしたくて薬に手を出すようになりました。

水商売で稼いだお金を全部薬物につぎ込むようになりました。食欲も全くなくなり、出産で太った身体は見る見るうちに痩せていきました。体重が38キロになってしまい動く気力もなくなったり、でも仕事には行かなければならないので、また薬をやってテンション上げてからお店に出たりしていました。もう身体がボロボロです。

薬物が切れると何もやる気がなく一日中寝ているという生活でした。さすがに母も心配して何かおかしなことをやっているんじゃないのかと追求してきましたが、私は絶対に言いませんでした。当時、幻覚を見たり、本気でスパイに追われているんじゃないかという思い込みが激しくなり、さすがに頭のどこかでは、やばいなと思っていました。このままでは苦しんで死ぬ。だけど止められない。

でもそんなときに見た幻覚が私を救ってくれたのです。
なぜか息子が「ママやめて!お願いだからやめて!」と止めてきたのです。もちろん実際にはそんなことはなかったのですが、私は泣きながら残りの薬を全部トイレに流しました。新しい薬を買うお金も無かったのでそれから私は禁断症状と戦いながらなんとか薬を止めることができました。

禁断症状というのは薬をやりたいという気持ちよりも肉体的な痛みの方が強く、全身がバラバラになるような感覚になり、気持ちがどん底になるのです。死ぬしかない!死ぬしかない!と毎日つぶやいていました。

当時は母親にも暴力を振るっていました。手がつけられない自分。私の人生はもうここで終わったなと思いました。でも私は死なずにしぶとく生きていました。



◆過食症〜アルコール依存症

薬をやめてしばらく経った頃少しずつ食欲が戻り今度は過食症になってしまいました。お店が終わった後にコンビニで大量のお菓子と食べ物とお酒を買い込み、延々と一人で食べ続けるのです。でも、太るのが嫌なので食べたらすぐに口に指を突っ込み嘔吐していました。口の中は胃酸で荒れて肌はボロボロ、体重は増えなかったけれどなんとなく顔色も悪く、やつれたような感じでした。当時すごく細くなりたかったのに食べたい欲求が止まらず常に食べ物のことばかり考えていました。
そのうち吐くことが目的になり、いっぱい食べたらいっぱい吐けるので食べる量はどんどん増えていきました。そんな自分が惨めで外に出るのも億劫になり1日中食べては吐き食べては吐きを繰り返していました。


ギャルファッションが流行っていた18歳ぐらいのとき、渋谷や六本木に入り浸り、そこで知り合った友達と毎日夜遊びをするようになりました。渋谷の109前でそのまま寝たり、センター街で当時ギャルの間で流行っていた、頭にハイビスカスをつけている子を見つけては飛び乗ってそれを奪ったり、ルーズソックスを無理やり脱がせて奪ったり。そして、あやしい薬物をやっては、クラブで踊り、様々な幻覚を私に見せて楽しませてくれました。だけど、その幻覚が終わった後にやっぱり気持ちが落ち込んでしまうので、どうにか常にハイテンションを保っていられないだろうかと色々調べた後、抗うつ剤を個人輸入できることを知り、大量に飲むと常にテンションが高くいられるという噂を聞きつけ試しに買って飲んでみましたが、期待通りの効果が見込めず今度はアルコール依存になっていくのです。

その時に知り合ったある会社の社長さんと付き合うことになり、 私は毎日その人の自宅で酒を飲んでいました。朝からウイスキーやブランデーなど高価なお酒を飲んで酔いつぶれ夕方に起きてまた飲んでという生活を送っていました。
社長さんの父親は代議士だったので、私は社長さんと付き合っていることを内緒にされていました。なので自由に出かけることは許されず、軟禁状態でその人の家に入り浸っていました。新しい洋服を買うことも許されず、私は毎日ただただアルコールを消費していくだけの存在でした。

その後、六本木のクラブでホステスのバイトをしていたのですが、そこのオーナーママの自宅と社長さんの自宅を行き来していたときに、私があまりにもろれつが回らずおかしなことをお客さんに言うようになったのでママは私をクビにしました。

収入に困ってしまったので社長さんに泣きついて、このままずっと家に置いて欲しいと懇願しました。私には家に帰るという選択肢はなかったのです。

その頃の私はアルコールを飲んで酔いつぶれると食事を取らなくなるので痩せるということに気がつきました。お酒を主食にして何も食べずにいるとみるみるうちに痩せていき体重は薬をやっていた時と同じで38キロぐらいになりました。

何もやる気がなく将来の目標もなく私はまた死にたいという衝動に駆られました。その社長さんの家で見つけてもらうことが分かっている時間帯に首を吊ったりもしました。いい加減にしてほしいと言われ私は家を追い出されました。



◆DV男との戦い

追い出され、自宅に戻ったら母は私の好き勝手な行動に腹を立てており、一緒に暮らしながらも全くコミュニケーションを取りませんでした。

それから私は、箱根で芸者の仕事をするようになり、そのときに水商売関係の仕事をしている人と出会い、付き合いました。
束縛が激しく私がお客さんと出かけたり連絡を取ったりしていることが分かると烈火のごとく怒り、私がやめてというまで殴り続けました。鼓膜が破れかかったこともあります。

別れたいと何度も思いましたが、別れたら何をされるか分からないので、それが怖くてずるずると付き合っていました。またお金の無心をされたり、返してと言うとお前ってケチなやつだよなと激しく罵られ殴られたりしました。特にお酒を飲むと絡んでくるので、これは父親と同じだな〜と当時よく思っていました。

あるとき、一緒に車に乗っていて口論になり、高速道路を走っている車からつき落とされました。一瞬何が起こったのかよく分かりませんでしたが、痛いとかよりも先に、絶対にこいつを殺してやる!という思いが先になり、少し先で止まった彼の車まで走って向かい、履いていたピンヒールのかかとで思い切り目の上を叩いてやりました。もう少し打ち所が悪ければ失明していたかもしれません。でも私はざまあみろと思いました。

そんな彼が実は浮気をしているということがわかり、なんと他の女と同棲までしていたのです。私は彼とその女が住んでいるマンションを突き止めマンションの敷地内で彼に電話をかけ、
「お前と女が住んでいるマンションに来てやったんだよ」と言ったら、慌てておりてきました。

その時は相手の女性が不在だったのでそこまでの修羅場にはなりませんでしたがマンションの前で思いっきり揉みあったので近所の人が警察に通報してしまいました。なんとか逃げたので追求されることはありませんでしたが、それからその男とはフェードアウトしていきました。



◆夜の世界から昼の世界への転身

その後も芸者の仕事をしていましたが、このままではダメだ!普通の昼間の仕事をしたい!と強く思うようになり、思い切って派遣会社に登録をしました。ただ、中学校中退の私が選べる職種があるはずもなく、最初についた昼の仕事は、知り合いからの紹介で雀荘でした。その後、派遣会社から某食品メーカーの工場で謎の中国人に怒鳴られながらのカップラーメンの袋詰め、ジーンズメーカーの工場での出荷時のチェックや、アパレルショップの店員などなど、様々な昼間の仕事をしてきました。

その後、テレビドラマや女性向け雑誌の影響で、
「ebian+日経新聞+パソコン=できる女、かっこいい女」像が芽生え、OL系の人材派遣会社に学歴を詐称して登録(ごめんなさい)し、誰もが知って知っている某一部上場企業の面談に赴きました。

面接官:エクセルやワード、パワーポイントはできますか?

ナナ:はい!できます!!

とにかく度胸と根性だけはあったので、入ってしまえばこっちのものだとそう答え、その後、なんと採用通知をいただけました。エクセルもワードもパワーポイントも知らないまま入社日を迎え、パソコンの電源の入れ方を隣の人に聞いたのは言うまでもありません。

カバンには、ebian、そして何が書いてあるのか全然わからないけど小さく折って読んでいる(眺めている?)日経新聞、私のイメージだけの”できる女像”を演じながら、毎日新橋まで通勤をしていました。そんな通勤中のある日のこと、ドアの近くに立っていた私の胸を触り、そのまま走って電車を降りていく痴漢男が現れ、誰の胸触ってんだよ!と私はカッとなり、叫びながら走って追いかけ、階段上部から飛び蹴りしたこともありました。いくらできる女を演じていても中身は抜けきれていない、変われていなかったのです。

新橋・銀座OL仕事に慣れて来たある日に、同僚から合コンに誘われました。そこで出会った外資系に勤めるサラリーマン。何度かデートを重ね、付き合うことになりました。外資系、高年収、アウディ、高級マンション、センスもよく、スタイリッシュで、みんなから羨ましがられるような人でした。ですが、付き合って半年目から全く体の関係がなくなり、スキンシップさえも徐々に減っていきました。しまいにはただ一緒に過ごすだけになりましたが、これが落ち着いた大人の関係なのかな、と私は思うようにしました。今まで付き合って来た男性があまりにも激しく、暴力的だったためか、天と地の差で物足りなさというか空虚感みたいなものを感じてしまったのかもしれません。

ただ、ある日、そんな彼の財布の中に風俗店のカードを発見してしまいました。風俗には行くくせに、私とは全く体の関係はないってどういうこと?!と激しく憤り、心の中は満たされない気持ちでいっぱいになり、やっぱり私は愛されない、大切にされないという思いがますます助長されました。

その後、なんとなくその彼とも続いたまま、営業会社に転職することができました(こちらでも学歴詐称してすみません)。やはり負けん気の強い私は、その会社の会長や社長などが書いた書籍はすべて読み漁り、面接に挑み、バイトでも派遣でもなく社員としての初の入社が決まりました。とにかく、営業職という自分が試されるステージで早く結果を出したくてとにかく全力で飛び込み営業をしまくっていました。

そんな折、彼にアメリカ転勤の話が浮上し、一緒にLAに行かないかと誘われましたが、それを最後にお別れしました。
なぜなら、今の仕事をもっともっと頑張って他人から認められる存在になりたい、そんな思いと、あとは、男性としてとても惹かれた上司が現れたからなのです。



◆最愛の人との出逢い

その上司は、普通の人とは違って自分の世界を持っている、自分軸があって、客先からも信頼されて、周りからも一目置かれている。最初は男性としてというより、憧れの存在でした。しかも、今まで出会って来たほとんどの男性は、私の見た目だったり、見せかけの部分ばかりを見て、私の本質を理解しようともせず、知ろうともせず、大概、チヤホヤしてくる人が多い中、その上司は基本的には私には興味が全くないどころか、結構厳しく、いつか絶対にギャフンと言わせてやろうと思っていました。

彼は、私自身もどこかで気づいていた、見栄っ張りで、知ったかぶりで、負けず嫌いなところを見抜いていたし、「高野のそういうところがよくない」とはっきり指摘してくれました。なんというか、私と正面からぶつかってきてくれたので、受け入れてくれるという安心感がどこかにありました。

そんな彼も自身のことを話しするようになり、彼は彼で2回の結婚、不倫され、不倫し、2回の離婚・・・と、経験しており、恋愛じたいに疲れていたようなのですが、しだいにお互いに惹かれあいお付き合いが始まりました。

お付き合いが始まった半年後ぐらいに、今まで付き合ってきた彼には結局ずっと言えずじまいだった、私には子供がいること、その子供に障害があること、薬物依存症の過去があることを、もう、これで引かれて終わっても仕方ない、それまでだ!という気持ちで思い切って打ち明けました。でも彼は、「神妙な面持ちで話があるって何かと思ったらそんなこと〜?人生、誰でもいろいろあるわ〜」と、笑いながら私を抱きしめてくれ、全てを受け入れてくれたのです。

そのときは、別れ際の駅のホームだったにも関わらず、嬉しくて嬉しくて涙が止まらず、号泣し、やっと、やっと私の全てを受け入れてくれる人が現れたんだ!という気持ちでいっぱいになりました。



◆一念発起してカウンセラーへ

やっとこんな私にも、私自身すべてを受け入れてくれる最愛の人と出逢えた。幸せってこういうことなのね!こういう気持ちなんだ!!とじわじわと感じていたとき、ふと、自分の人生を振り返りました。

辛いことしかなかった人生だったけど、今はこうして薬からもダメンズからも脱することができ、最愛の人もできた。でも、それはそれはとっても長い道のりで遠回りばかり、自殺未遂も繰り返し、今こんなに幸せに生きてることが不思議なぐらい。あのときに、私のすべてを受け入れてくれて、相談できる人がいたら、寄り添ってくれる人がいたら、こんなに長く苦しい思いもしなかったし、遠回りもしないで済んだはず・・・。

こんなにひどい人生だった私自身が、今こうしてこんなに幸せになれた今だからこそ、本当にそう思える。私は、そんな今、苦しんでる人の役に立てるのではないだろうかとふつふつと思い始め、気づけばカウンセラーになるべく、メンタルセラピストスクールに申し込みをしていました。

そして、スクール修了後、2008年にカウンセラーとしてデビューしました。
当時は、ダメンズに引っかからないような恋愛テクニックや、逆にモテない男たちを集めて、疑似デートを行い、女の子側からダメ出しをしてもらうセミナーなどしていましたが、元々経験豊富だった私に相談にくる女性が多く、その中でもっとも多かったのが不倫恋愛の相談だったのです。また母の不倫の相談を幼ながらされていたことも、思い出し、そこで、2010年より不倫専門カウンセラーとして、ブログを始めました。



◆その後の両親との関係について

私が今、カウンセリングの際に、親との関係についてよく語るのには理由があります。最愛の人とも出逢い、カウンセラーとしてデビューしたあとも両親への許せない気持ち、捨てられたという気持ちは消えずにいて、憎しみしかありませんでした。

しかし、あることがきっかけで、まずは母親の立場になって真剣に考えた結果、愛されてないと思っていたのは自分の当時の思い込みだったのではないかと思えるようになりました。

「私は、お母さんに捨てられたという思いと、憎しみしかなかった。ずっとずっと憎んでました、ごめんなさい!」とあるとき、伝えることができ、そして、そのあと、さらに憎んでいたあの暴力のひどかった父にも同じことを伝え、謝りました。母も父も、「そんなことは全くなかった、いつでもナナちゃんのことを思っていた」と言ってくれて、全員で号泣しました。

そこからというもの、自分の思い込みが自分の世界を作り上げているんだということがわかり、愛されていないと言うことも幻想であり、そもそも深く愛されていたんだ、愛されていない人なんていないんだ!と、見える世界が大きく大きく変わったのです。



◆終わりに

以前の荒れていた頃の私には全く想像がつきませんが、現在、私は5人の子供に恵まれ、素敵な旦那様にも愛され、本当に幸せに暮らさせていただいております。私に関わって来れたすべての方に感謝しかありません。たとえ、高速道路から私を突き落とした彼でさえも(笑)。

この感謝の気持ちと、こんな私でさえ幸せになれたんだから、みなさんにも必ずや幸せが来るんだ!という強い思いを持ち、カウンセラーとして活動させていただいております。

私の軸となる思い、

”すべての女性にハッピーに、活き活きと生きていただきたい”

そして、

“自分の考え方が変われば、相手も変わり、自分の人生も変わる”

が、根底にあります。
社名である、「ココニア」は”心のパイオニア”からの造語です。
これからも一人でも多くの女性の幸せ、ハッピーのための船頭となるべく、また不倫恋愛のみならず、すべての女性のお悩みの解消のために日々精進してまいる所存です。


こんな私でも幸せになれました。
あなたに幸せが訪れないはずがありません!!


長文にお付き合いいただきありがとうございます。


高野那々